はじめまして。
建築ライターとして再出発しました、Kimiと申します。
なぜ再出発かというと、私は「広告と建築」という、全く違う分野での職業経験があるからです。
卒業してすぐに勤めた広告代理店では、一般的なコピーライターとは違い、主に企業の新商品開発に伴う仕事で、商標権取得可能なネーミングの制作をしていました。
建築業界に入ったのは35歳を過ぎてからです。
ブライダル施設を手がけている建設会社に入社し、内装デザインを担当させてもらっていました。
全く違う仕事のように思えますが、実は大きな共通点があります。
広告と建築は、どちらも「全産業」が対象であり、想像力が大きく求められる仕事だという点です。
又、お客様と一つのモノを創り上げる面白さや、結果が出た時の嬉しさは、これまで経験したどの仕事よりも群を抜いていました。
私にとって建築ライターは、これまでの経験を融合するような形になります。
これからどんなお客様と出会えるのか、どんなお仕事に携われるのかと思うと、ワクワクが止まりません。
人生の転機
さて、広告業界からなぜ建築業界へ目指すことになったのか。
それを説明するには、私の人生の一部をお話ししなければなりません。
広告業界での月日はあっという間に流れ、結婚、出産、育児、そして、体を壊した後に離婚を経験することになります。
この頃はバブル崩壊も経験しています。
あらゆる企業が真っ先に広告予算を削っていき、業界最大手と言われる広告代理店が下請業者へ仕事はないかと電話で問い合わせてくることもありました。
この時ばかりは、本当に厳しい時代に突入してしまったんだなと肌身で感じたことを思い出します。
次から次へと広告代理店が潰れる中、自分の人生にも大きな転換期がやって来ていました。
小さな子供二人を抱えての離婚という選択で、生活環境がガラリと変わりました。
今では信じられない話ですが、書籍や新聞、電話や直接市場調査をして情報収集をしたり、書類作成に使っていたPCは1台を数人で共有していた時代です。
私が育児とリハビリに明け暮れていた最中、世の中はインターネットの普及により、社会全体の流れが大きく変わっていきました。
年齢も三十歳を超えて、きっと社会に出たら浦島太郎のような状態。
でも、悩んでいる暇はありません。
子供の成長と社会の進化の早さに猛烈に焦りましたが、どこに行っても同じ努力をするなら、「これを機に異業種に挑戦しても同じではないか」と考えたのです。
ただ、昔から「形に残る仕事がしたい。無から有を生み出すような仕事がしたい。」その気持ちは変わりませんでした。
この先また職を失うことになっても、どこに転んでも生きていけるようにと思って選んだのが「建築業界」だったのです。
没頭できることは、この上ない幸せの証
最初に入社した建設会社では「ブライダル施設」の内装デザインを手掛けていました。
初めて担当した物件は、神戸にある大宴会場の改修工事でした。
500㎡近くある大空間の解体工事から始まり、構造物が剥き出しになっていくのを初めて見ました。
今まで見たこともない建築物の中を見た時の圧倒的なインパクトは今でも鮮明に覚えています。
仕事の内容は、お客様の要望をヒアリングした後、競合他社のデザインと比べながらプランニングを練り上げ、イメージ写真での擦り合わせを何度も行い、ご提案書を作成してプレゼン。
いろいろな情報や業務を同時並行でまとめていくしんどさはありましたが、この仕事の一番の醍醐味でもありました。
自分の頭の中で描いたデザインをパース(完成予想図)に起こし、それが建物となって立体化していく。
毎回現場に足を運ぶたびに夢が現実化していくようで、建築でできないことはないのではないかと錯覚するほどでした。
例えて言うなら、音楽家の方がコンサート会場にいたファンから熱い拍手を受け、それがたまらない感動となって、音楽がやめられないという話を聞いたことがありますが、正にそれと同じような感動が私の中に流れ続けていました。
緊張を伴うことが多い仕事でしたが、それでも疲れを忘れ、寝食を忘れて没頭できたのは、やはり「形に残る仕事」ができたから。思うようにならないことは山のようにありましたが、広告も建築も、どちらも「正解がない世界」だから面白かったのかも知れません。
私にとってこれらの経験は、何よりも変え難く尊いものとなっています。
奇跡のギフト
リーマンショックの影響で建築業界の廃業が続いていた時、暫く建築から離れたことがありました。
当時は仕事を選んではいられないという人も多く、私もそのうちの一人でした。
その中でも印象深い、心温まるエピソードがあります。
派遣会社の面接での出来事でした。
履歴書と職務経歴書の内容を一通り確認された後、過去の作品集を提出した途端、その面接官の顔が一瞬停止し、その後「ええ〜っ!?」という感嘆詞が出てきたのです。
専門学校も出ていない私がこんな仕事をしていたなんて、嘘をついていると思われたのだろうか?
泣きたくなる気持ちでいっぱいになりましたが、驚いた理由はそうではありませんでした。
何と、この面接のひと月前に、私が一番最初に担当した、あの神戸の大宴会場で披露宴をされたばかりだったのです。
それも会場を選んだのは新婦ではなく、新郎の自分が「ここが良い!」と言って決めてくださったそうです。
「こんな素敵な宴会場を作ってくださってありがとうございました!とてもいい結婚式ができましたよ。」と言って見せてくださった写真には、あの高砂に座っていらっしゃる素敵なご夫婦の笑顔がありました。
自分が初めてデザインした宴会場を利用してくださったお客様と、こんな形で巡り会うなんて!
こんな嬉しい言葉が聞けるなんて思いもよらず、私にとっては奇跡のようなギフトでした。
この宴会場には、思い出深いエピソードがたくさんあります。
工事中に輸入船が海上で炎上して資材が燃えてしまったり、赤色と指定したはずの椅子の座面が緑色だったり、新郎新婦が座る高砂の装飾に、ウォーターカーテンの施工を試みたり・・。
冷や汗をかいたことや、竣工を迎えた時の嬉しさが、走馬灯のように一瞬にして思い出が駆け巡りました。
明日はどうなるか分からない、そんな暗い気持ちで毎日を過ごしていましたが、この時から私のモチベーションは一気に上がっていきました。
感動を伝えたい〜私が目指すライティングとは・・
全てのお客様には、ユーザー様にご提供されるまでに至った「心動かされた動機」が必ずあります。
どんな思いでそれを手がけることになったのか、その仕事を通じて得た感動はどうだったのか。
その気持ちを丁寧に汲み取り、お客様のペルソナに伝えることができるライターになることです。
世の中には、同じような商材を扱っている企業様はたくさんいらっしゃいます。
ですが、その動機やキッカケは全く同じものではないと思うのです。
それはユーザー様も同じで、その商材を使おうと思われる動機もまた千差万別です。
ライターもまた然り。
ライティングを仕事としている人は数えきれないほどいますが、得意分野はそれぞれですし、例え同じ分野であっても、お客様にフィットしているライターはまた違います。
お客様ご自身の商材やユーザー様との間で得た感動があるように、私もお客様との出会いで感動が生まれるような仕事をしていきたい。お客様の想像を超えるような分野を掘り起こし、ご提案できるような企画力のあるライターを目指し頑張っていきたいと思っています。